前々回、自分の経験を棚卸しましょう、という主旨の記事を書きました。
それに対して、
どうすれば意味づけができるようになるのでしょうか?
というご質問をいただきました。
今回は、自分の経験の棚卸について、もう少し掘り下げてみたいと思います。
目次
「渡辺さん、大丈夫ですか?!」
前回の記事を読んでくださった方から、
「渡辺さん、大丈夫ですか?!」
「渡辺さんがそんな大変な状況になっていたなんて…」
とご心配の声をいただきました。
大丈夫です、と言いたいところですが、やっぱり大変です…
経済的な苦境もありますが、むしろ大変なのは、「毎日子どもたちの世話で時間が使い果たされてしまい、自分の時間が取れない」という辛さの方が大きいかもしれません。
毎日、
- 子どもたちの運動不足を防ぐために散歩に連れて行ったり、
- 長男の家庭学習につきそったり、
- ひっきりなしに構って~とやってくる次男に適度に構ったりかわしたり、
- 食事の準備やら部屋の片づけやら、洗濯やら、
とにかく、そういう様々なことで時間が細切れで、とてもではないけれど自分の仕事ができない。
これが一番つらいです。
目の前の家事と育児で、時間が消費されてしまい、自分の経験から何を学んだのか?を考えたりまとめたりする時間がとれないんです。
自分がどんな意味づけをするか
この状況下で、自分が仕事に打ち込む時間が取れないのは、仕方がないことだと思っています。
どんな状況であっても、どんな体験であっても、そこから学ぶことはある。
これは、真理です。
「学びのある経験」「やりがいのある仕事」と、
「学びのない経験」「やりがいのない仕事」が分かれているのではありません。
どんな経験であっても、問題は、そこに、自分がどんな意味づけをするか、がすべてなのです。
そして、意味づけをするには、自分の体験について、
その体験で、自分は何を感じたのか?
自分の気持ちや感覚、いわば自分の感情について味わい尽くす
ことが必要なのです。
一人一人が全く違う意味づけ、学びをしている
意味づけ・学びは、とても主観的なものです。
同じ体験をしても、万人が同じように感じ、同じような学びを得るとは限りません。
むしろ、一人一人が全く違う意味づけ、学びをしていると考えるべきです。
なぜなら、私たちは一人一人、異なる感じ方・考え方、ものの見方・とらえ方をするからです。
その現実を、好ましい、あるいは不快な事実としてとらえるかは人によって違うし、不快さにも様々なバリエーションがあります。
- 不快な事実としてとらえる人
- 怒りとしてとらえる人
- 悲しみや恥ずかしさ、嫉妬と捉える人
様々であり、感じる対象や感じ方にも濃淡があります。
ただ、経験に対する意味づけの出発点は、「どう感じたか?」という自分の感情にほかなりません。
自分の気持ちを、赤裸々に、味わい尽くす。
自分の感情とは、単純な「うれしい」「悲しい」などのキーワードで表現できるものではありません。
何に対して、どのように、どれくらい、その感情を感じるのか。
ポジティブな感情もネガティブな感情も、自分の気持ちを、赤裸々に、味わい尽くす。
「うれしい」「悲しい」という点ではなく、
自分の気持ちを、高い解像度で表現できるようになると、
自然と自分なりの意味づけや学びを抽出する
ことができます。
そうやって描き出された意味づけ・学びは、実感の伴う、腹落ちするものになります。
キーワードを書き留めるにとどまってしまったり、経験した出来事(事実)を書いて終わり、のような表面的な底の浅い意味づけでは、せっかくの棚卸が形になりません。
それでは、せっかくの自分の経験を、とことんまで咀嚼して学びという栄養素に変えることができないのです。
自分の経験を栄養素に変えるために
自分の経験を栄養素に変えるために、
自分がその出来事に対してどう感じたか、
深く自分の感情と向き合うことによって、
自分なりの意味付けが浮き上がってきます。
そのためには、一定の時間、自分の感情に向き合う時間を定期的にとることが必要なんです。
あなたの経験に、意味づけをしたり、学びを抽出したりする作業は、あなたにしかできません。
どう意味づけをするか、どう学びを表現するか。
そこに向き合うことこそが、あなたの考える・表現する力を引き出す作業なのです。
朝活はじめます!
家事と育児に翻弄される毎日の中で、私も自分自身の経験を棚卸する時間が全然とれていませんでした。
そこで、しばらくの間、自主的に朝活として、棚卸の時間を取ろうと思っています。
もしご興味のある方がいらっしゃったら、やり方などご紹介します。
メールやLINEなどでご連絡くださいね^^
メールアドレス:info@yawalogi.net
公式LINE:http://nav.cx/87xu0Yg
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